内閣法制局訟務長官

  2015.4.19(日曜)音楽家哲学詩人法社会学者てっちゃんの株式教室(中央兜町音楽出版社、元東京経済企画室) 「私の日曜論壇」

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  <内閣法制局訟務局長>
 今回新任した内閣訟務局長はたいしたものだ。57歳、裁判官一筋27年。
彼の地裁での判断は画期的なものだった。
これまでの公職選挙法の規定では、精神障害者成年後見人が選定された時点で、選挙権を失った。
訴えを受けて、彼が下した判断は「精神障害者本人の選挙権を認める」という「公職選挙法違憲判決」だった。
どのような法律も、日本国憲法の審査を受ける、これが最高裁の「違憲立法審査権」だ。
ただし、法律は「自らの権利を主張しない者までも保護はしない」。
これの「一例」が、時効制度の「援用規定」だ。
本来ならば、すべての法律は日本国憲法の審査を経てから施行されるべきであるが、
手続きが事務的に「形骸化」されて、すべての法律において個別に存し得る「欠陥」が見過ごされる恐れがある。
つまり、安易な「お墨付き」が、逆に「隠れた悪法」の暴走を許す温床ともなりかねない。
国民主権の自助救済の権能が奪われる危惧があることから現行の法運用となっているのだろうと私は独自に解釈する。

 彼が判決を下した法廷で、
彼は「これからはあなたの信じる候補者をあなたの考えで自由に投票していいのですよ」と笑顔で語りかけた。
法廷の傍聴席には、感動の拍手の渦が沸き起こったのだという。
まさに「大岡裁き」、現代の「遠山の金さん」だ。
違憲立法の判断が下った公職選挙法は、やがて法改正されたのだという。
三権分立、裁判官の面目躍如たるものがある。
国家が被告となった場合、彼はどのような判断を下すのだろう。
政治の安定性との兼ね合いで、困難な行く末が案じられる。

 安倍政権が強力になればなるほど、「アベノミクス批判」がネットでも散見される。
私は、敢えてどちらかということになれば「アイアムアベ」だ。
今の私は、「理想主義」(ひじょうに受けが良く、賛同者が多い)に対してはとても冷めた感覚がある。
私は軍国主義者でもないし、右翼でもない。
だが、今の世界を見るがいい。
いっさい「聞く耳を持たない」中国指導者とロシア指導者の「脅威」にさらされているのが「民主主義国家」だ。
北海道の半分が、かつての「樺太サハリン)」のように北と南(日本領土だった。真岡郵便局悲話)に分断されて「侵略」されるかも。
沖縄諸島が、アメリカ軍基地撤廃を虎視眈々と待ち受ける中国人民解放軍によってある日いきなり「占拠」されるかも。
妄想や空想ではない。「クリミヤ半島」の現実を見よ。

 事後に「後講釈」「正当化」なんか、侵略者にとって「たやすいこと」だ。そして「洗脳」される。
かつては、日本国の関東軍が「満州国」を中国大陸に建国した。朝鮮半島は日本領土だった。
今の日本人は、銃剣を突きつけられた経験が無いから、言いたいこと「理想論」ばかりが「称賛」を浴びている。
むろん「言論の自由」を大前提に展開する当欄では、私独自の「理想論」が特徴ではある。
しかし、私の「現実論」は、けっして「逃避、妥協」ではない。
私の長い人生経験において、「理想主義者たち」というのは「日和見主義、風見鶏」の代名詞でもある。
我が身に危険が及ぶと、彼らはとたんに「豹変」するのだ。

 要は、自ら自分自身の理想に酔って、「あり得ない桃源郷」を彷徨っている。理想を述べる自己の姿を単純に美化している。
人の尻馬に乗って発言しているに過ぎない。だから、人間的な意味合いで「軽い」し、基本的に信用できない人が多い。
かつての共産主義者の小林多喜二(「蟹工船」の著者)のような「死をかけた信念」などこれっぽっちもない。
初代総理伊藤博文や、沖縄返還佐藤栄作総理、消費税の生みの親竹下登総理などのように、
国の指導者は命をかけて国家運営に当たっている。尊敬すべき人たちだ。
国のために、あえて悪人、悪者になる。
鬼のような苦渋の決断の果てに、今の日本国の繁栄がある。
ただし、独断専行を戒め、おごらず懐深く「耳を傾ける」のが基本線だ。
そして被害者には、最大限の「誠意」「気配り」を欠かしてはならない。

 広島の児童の3割が「世界で初めて原爆を投下された都市はどこか」の問いに答えられないのだという。
全国なら、おそらく5割を超えるだろう。
「自由」を穿き違えてはならない。最低限の規律、モラルが欠けつつある。
「押し付け教育」を単に否定して「暴力反対」を叫ぶのは、前述の「理想主義者たち」なのである。
能弁な人を疑え、訥弁な人の言葉に耳を傾けよ。急死した大平総理の姿を思い浮かべよ。
浜口雄幸総理の死をかけた国会答弁を想起せよ。